百地について

 ■忍者・百地三太夫(ももちさんだゆう)
百地三太夫は架空の人物と見る向きも多いが、ある資料によると三太夫は1571年に百地清右衛門の子として伊賀国名張中村に生まれた実在の人物である。前述の天正伊賀の乱以前は名張竜口の地に住んでいたらしいが、乱の少し前に喰代(ほおじろ)の里へ伯父の百地丹波とともに移ったという。したがってこの記録に見る限り、天正伊賀の乱で国人のリーダー的存在となった人物は三太夫ではない。なぜなら当時三太夫はまだ十歳だったからである。 百地氏は伊賀の竜口と喰代、大和の竜口にそれぞれ拠点があり、一族も多い。喰代のほうは戦国期に砦を築いただけで、どうやらその本拠は竜口のようである。また、「百地」は「ももち」と読むのが普通だが、現地では「ももじ」と読むとのこと。これは現地での取材時に「ももじ」と名乗るおばあさんからお伺いした話である。 乱は柏原城を開城して終結したが、このとき三太夫を含む百地丹波守以下百名ほどは高野山に下り、やがて紀州根来の里に定着したという。百地三太夫はこれをもって歴史から消える。 現在は、三太夫の家がレストランに模様替えし「三太夫」となっています。1640年、伊賀城代家老に藤堂釆女なる人物が任命されたのだが、この人物、元の名を保田元則といい、父は千賀地半蔵則直。すなわち服部半蔵正成の兄なのである。 彼は紀州に隠棲していた百地丹波の子・保武を呼んで伊賀藩士に取り立て、伊賀の名門藤林家を再興させる。そしてこの藤林保武が後に忍術書の最高峰と言われる「萬川集海」を著すのである。また、紀州に残った弟の正武も忍術新楠流の開祖となり、これも名高い「正忍記」を著す。 つまり、忍術秘伝書の双璧と呼ばれるこれら二書は、どちらも百地丹波の子によって完成されたのである。改易された服部家に代わって半蔵の甥が伊賀の城代家老になって国を治め、百地丹波の子が藤林家を再興し「萬川集海」「正忍記」を後世に残した。これには泉下の半蔵正成もきっと喜んでいたことだろう。 ちなみに丹波は一度伊賀に帰ってきたものの伊賀には住まず、天正伊賀の乱の最後の砦・柏原城にほど近い大和国竜口に隠棲して生を終えたという。
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